わたしの次の標的は、砂漠の真ん中にあるボリサという小さな村だった。
地図によれば、前に喰い尽くした村からは四十キロほど離れており、わたしはその間、ほとんど飲まず食わずで移動することを強いられた。砂漠にはおよそ目印になりうるものがほとんどなく、昼は太陽を、夜は星を手掛かりにして進むことになった。また、砂に足を取られるというのもあって、わたしは三日三晩歩き続ける羽目になったのだった。
そんなわけで、わたしはものすごくお腹を空かせながら歩いていた。
早く人間を食べたい。
そう思った。
わたしは人間を食べる。人間をつかまえて、殺して、ばらばらにしてきれいに食べる。
わたし自身も人間だから、これは共食いということになるのだろう。だから、わたしは人間の社会で普通に暮らしていくことができない。生まれた村を追い出されてから、わたしはずっとこうして、小さな集落を渡り歩いては人を次々に食べていった。
一日食い繋ぐのに一人、一週間なら七人、一か月で三十人。こうして計算してみると、ずいぶん楽なことのようにも思えるけど、実際に人間を殺して食べるのはとても難しい。
集落で失踪事件が起こったとなれば、疑われるのは当然部外者であるわたしだ。だからわたしは、夜中なんかに集落の人間を全員殺してから、肉が腐るまでその集落に滞在するという方式を取るようになっていた。前回の村には美味しそうな人がたくさんいたからもっと長居したかったのだけど、肉がとても食べられないような味になっていたので泣く泣く立ち去った。
たとえば塩漬けにしたら長持ちして、持ち運べたりもするのだろうけど、あいにく今の世の中では塩は貴重品だし、わたしにそこまでの技量があるとも思えなかった。
だから、村から村へと渡り歩くとき、わたしはいつも極度の空腹に陥る。ふとした瞬間に視界が暗転したり、天地がひっくり返ったような感覚に襲われたりして、あ、本当に死ぬのかもな、なんて思う。もともと何百人もの人の命を犠牲にして生きてきたのだし、わたしは今ここで死んだ方が良いのかもしれない。いっそここで諦めて立ち止まってみようかな……なんて考えをつらつらと並べ立てているうちに、いつの間にか目当ての村が見えてくる。それでわたしは安心して、流浪の旅人として振る舞う準備を始めるのだった。
しかし、今回ばかりはそうはいかないらしい。すでに体力は限界に達していて、いま見ている景色が現実なのかどうかすらおぼつかない。いくら歩いても、地平線から家々の屋根が見えてくることはなかった。村まであと何キロだろうか。経験から言えば、いくらなんでも十キロ以上ということはないと思うのだけど……砂漠なんて歩いたこともないから、確証はない。地平線までの距離は約四・五キロだと聞いたことがあるから、最低でも五キロくらいはあるということになる。今の歩行スピードから考えれば、まだ三時間以上かかることは確定的だった。
飢えて飢えて仕方ないことを、なんと表現すればいいのだろう。飢え果てる、飢え枯れる、飢え飢える……いろいろな存在しない表現が頭の中を駆けめぐる。
「飢えわたる」なんてのはどうだろう。飢えが身体じゅうに染み渡るみたいで、なかなか良いんじゃないかな。
いや、わたしはいま喉もかわいているから、身体じゅうには行き渡らないかもしれないな。
そんなことを考えているうちに、わたしは倒れた。
意識を失う瞬間、ああ、砂って案外固いんだな、なんてことをわたしは思った。
2
次に目が覚めたとき、私は驚いた。まさか自分が目を覚ますなんて思っていなかったからだ。周囲を見まわしてみたところ、ここは民家の中のようだ。わたしはベッドに寝かされていた。椅子に座った少年が隣で眠りこけていた。その間抜けな様子にどこか気が抜けて、
「はあ……」
と、わたしは大きなため息をついた。空気が喉に引っかかって掠れる音がする。そうだ、水を飲まなきゃ。そう思ってわたしは、ベッドから起き上がろうとする。しかし、飢餓状態の身体は言うことを聞かず、身体を起こした勢いのままわたしは床に転げ落ちてしまった。いまの音で眠りから覚めたのだろう、少年が驚いた表情でこちらを見下ろしていた。頬に大きな傷痕があるのが印象的だった。
「……気付いたのか」
少年はわたしに手を伸ばす。彼の肩を借りて、わたしはベッドに座りなおした。
「ここは?」
とわたしは訊いた。しかしその声は掠れて彼には届かなかったようで、彼は不可思議そうな顔をした。わたしが喉を指さしたり、水を飲むジェスチャーをしたりして、ようやく彼はわたしが喋れないことを理解したようだった。
「食糧が尽きて遭難か。災難だったな」
少年が持ってきた水を飲んでからしばらく経って、声は掠れたままだったが、わたしは最低限のコミュニケーションが取れるようになった。身の上を簡潔に説明して(もちろんわたしが人喰いであることは伏せて)、この村について教えてもらった。
どうやら、ここはわたしが目指していたのとは別の村であるようだった。この村の名前はドラというらしい。ハリクと名乗ったその少年は、馬に乗って村の近くを見回っていたところ、地面に倒れ伏しているわたしを見つけたのだという。馬があったとはいえ、まだ十三歳くらいに見える彼がわたしをここまで運んでくるのにはそれなりの苦労を要しただろう。
「けれど、この村は地図には載っていないようだったけど」
わたしが問うと、ハリクは露骨に嫌そうな顔をする。大きなため息をついてから、彼は答えた。
「あのなお姉さん、ある村が地図に載っていないとき、考えられる原因は三つある。その村が地図よりも遅く生まれたこと、その村が誰にも知られていないこと、そして――。
村の存在自体が禁忌になっていることだ。ここは何かしら後ろ暗い事情を持つ、犯罪者たちが暮らす村なんだ」
「……犯罪者が?」
わたしは愕然とした。せっかく人里に辿り着いたと思ったらそこが犯罪者の村だった、なんて言われたら誰だってそう感じるだろうし、自分に関して言えばわたしは犯罪者の肉など食べたくはなかった。まあ、我慢するしかないのだろうが……。とはいえ、目の前の少年までもが何らかの罪を犯してここにいるというのは意外な話だった。部外者のわたしにあっさり打ち明けたのを見るに、彼がしたのは盗みなどの軽微な犯罪だったのかもしれないが。
「腹が減ってるんだろう、粥か何かを用意するよ」
「あ、いや、今はちょっと、食べたら吐いてしまいそうだから、また後で」
もちろん嘘だ。起きてから意識はしていなかったが、お腹はこれ以上ないほどに空いている。先ほど水を飲んだことで胃が刺激されて、食欲は増すばかりだった。しかしわたしは、人肉以外の食物を摂取することができない。食べると拒絶反応を起こし吐いてしまうのだ。そう考えると、あながち嘘でないとも言える。
「そうか? まあ、分かったよ。他にも何か手伝ってほしいことがあったら言ってくれ」
どうやらハリクは、かなり面倒見のいい男みたいだ。夜通し看病、なんてことになったら災難だが、これは使える、とわたしは思った。村の住人を皆殺しにするためには、入念な事前準備が必要だ。情報収集も怠ってはならない。どれだけ腹が減っていても、だ。
「それじゃあ、この村を案内してくれないかな?」
あらん限りの愛想笑いで、わたしは言った。
「さっきの様子を見る限り、とても歩き回れる状態じゃないと思うが……まああんたが大丈夫なら、お望み通り案内してやるよ。ああそうだ、分かると思うけど、犯罪者の村ってのをバラしたのは、他の村人には言うなよ。最悪の場合、おれの首が飛ぶ。物理的にな」
「もちろん」
まあ、どのみち彼の首は飛ぶ――というか、わたしに喰われるのだけど。
ドラ村は、七軒ほどの家々と畑からなるごく平凡な村だった。住民の数はちょうど十人。ハリクの家は村のはずれにあったようで、わたしたちは村を一周するような形になった。中心部には集会所のような建物があり、今夜そこで宴が開かれるのだとハリクは教えてくれた。一堂に会した村人が酔いつぶれていれば皆殺しには好都合だな、とわたしは考えた。
ただ一つ異様だったのは、村人たちがみな奇妙な意匠があしらわれた仮面を被って生活していたことだ。犯罪者どうし、お互いの背景事情については深入りしないということなのだろう。しかし妙だったのは、村の中でハリクだけがその仮面を被っていないということだった。訊ねてみると、彼は「おれの顔はもうみんなに知れちゃってるからな」などと、どうにも要領を得ないことを言った。まあ、何か事情があるのだろう。深追いするようなことではない。
村のはずれ、ハリクの家から見てちょうど反対側くらいの場所に、異様に汚らしい小屋があった。とても人が住むようなところには思えなかったので、家畜小屋かと訊いてみたところ、ここで馬を飼っているのだという。なるほど、わたしを運んでくれた馬がここにいるわけだ。いくつかの鳴き声が重なって聞こえたので、この狭い小屋で何頭も飼っているのだろう。そう考えると、今の声は叫びに聞こえなくもない……。ぎゅうぎゅう詰めにされている馬の姿を想像して、わたしは彼らを心底哀れに思った。
およそ一時間後、村の見物もとい視察を終えたわたしはハリクの家に一人残されていた。
「宴の準備があるから、集会所にいる。何かあったら呼びに来てくれ」
そう言い残して、ハリクは去っていった。宴に誘われる……ということはなかった。もともと内々に取り仕切るつもりだったのだろうから、無理もない。彼らにとって、わたしという闖入者の存在はまったくの想定外だったはずだ。わたしは人肉以外のものが食べられないので、誘われたとしても断っていただろうが。
しばらく考えて、少々危険だが、宴が終わる頃に集会所を襲撃することにわたしは決めた。多少しらふの人間がいても、十人程度ならじゅうぶん殺しきれると判断したのだ。わたしはバックパックからダガーを取り出した。少々錆びついていて、刃こぼれも始まっている。次の村――ボリサには鍛冶屋がいると聞いたから、新しいのを見繕ってもらおう。
食事のことを考え、わたしは数時間ぶりに空腹感を思い出した。自分が空腹かどうかも判然としないのは、危険なサインだ。
早いこと肉にありつかないと……。
心身ともに限界だったわたしは、ハリクのベッドに倒れ込んだ。獣の匂い……馬に乗っていたからか。
宴が終わるまでには空腹で目が覚めるだろう。わたしはダガーを矯めつ眇めつして、来たるべきカーニバルに思いを馳せて眠りに落ちた。
3
わたしが目を覚ましたとき、家の中はすっかり寒くなっていた。砂漠は単に暑いというイメージを持たれがちだが、寒暖差が激しいのも特徴だ。わたしは小刻みに震えながら、ハリクの家を出た。
家々に明かりは灯っておらず(宴の最中だからだろう)、わたしは暗闇に目を慣らしてから歩き始めたが、遠くを見通せない中で記憶を頼りに集会所まで辿り着くのはなかなか苦労を要した。驚いたのは、集会所の前ですら灯篭に火が灯っていなかったことだ。すでにみんな眠りこけてしまったのだろうか。なんとも言えない不吉な予感が、わたしの脳裡をかすめていた。
異変に気付いたのは、集会所の中に入ってからだった。仮に眠っていたとしても、生きている人間がそこにいれば気配が生じる。しかし集会所の中には、およそ気配と呼べるようなものが何も感じられなかった。
そして何よりも異常だったのは、わたしにとってはよく慣れた、しかし人々の日常からすれば縁遠いにおい――それは紛れもなく、人間の血液のにおいだった。それも、部屋中に充満するほどの血腥いにおい。足元を見ると、わたしの片足は血だまりを踏んでいて、すでに凝固を始めた血液が粘り気を増しているのが分かった。もう片方の足は誰かの身体を踏んづけていた。
その胸には、大きなナイフが突き刺さっていた。心臓を貫かれて即死だったのだろう、仰向けになって倒れている。そしてその遺体がのしかかっているのは、また別の遺体。
ドラ村に住まう十人の村人が、ここで全員死んでいた。
全員の死体の胸にナイフが突き刺さっている。
十人が住む村で、十人が死んでいる。しかも、まったく同じ死に方で。
彼らが集団自殺をしたことは明らかだった。
わたしはダガーで女性の遺体から乳房を切り取って、口に運んだ。
普段なら脂っこいものが大好きなわたしなのに、このときばかりは美味しいと感じられなかった。
他人が殺した人間を食べても美味しくない。十七年も生きてきて、初めて学んだことだった。
4
二週間後、わたしは元の目当てだったボリサ村に滞在していた。
幸か不幸かは分からないがドラ村でたらふく食べることができたので、ボリサまでの道中、わたしは元気いっぱいだった。喜びのあまりスキップしていたら、砂に足を取られて転んでしまったくらいだ。
ボリサは非常に発展した村で、農耕から畜産まで幅広く取り扱っていたし、噂で聞いていた鍛冶屋もいたので、わたしはダガーを新調した。彼らの胸に刺さっていたナイフを拝借することも考えたのだが、なんとなく気乗りしなかった。
わたしは鍛冶屋のボッコフという男に今回の事件について話した。彼が言うことには、ドラ村の住人は奇妙な信仰を持つ集団で、各々の故郷で信仰ゆえの事件を起こして村を追われた者たちが集まったのだという。実際にこのボリサ村でも、かつて彼らが起こした事件で七人が亡くなったらしい。彼らは「人を殺してもなお赦されるほどの善人であること」を旨としていたが、いつの間にか教義が反転して「人を殺すこと」が先行してしまったらしい。
このような背景を併せて考えると、事件のあらすじはこのようになるようだ。
罪を持つ者が赦されるためには、死を目撃するものが必要だ。しかし、ドラ村の悪評について知っている者がそれに協力してくれるはずもない。そこで、わたしのような旅人を用意したというわけだ。いつ集団自殺を決めたのかは分からないが、わたしの来訪がトリガーとなって決行に至ったのは間違いないようだった。
まったく、とんだ災難な事態に巻き込まれたものだ。もしかすると、こうしてわたしがドラ村の全滅を誰かに告げるところまで織り込み済みだったのかもしれない。いずれにしても、彼らの本望は果たされたわけだし、この村を含めた周囲の村にとっても、それは良い報せだろう。ボッコフも口にこそ出さなかったが、わたしの話を聞いてどこか肩の荷が下りたような顔をしていた。先ほど言っていた事件で、肉親を失ったのかもしれない。そう考えると、なんだかわたしも良いことをしたような気分になる。今回に限って言えば、自分の手を汚してもいないわけだし。この男を殺すのは最後の方にしてあげようと思った。
わたしは今日、この村を襲う。顔なじみが増えて警戒心も解かれてきたころだと思うし、これ以上ない好機だろう。住人が少し多いのがネックだったが、それはメリットでもある。美味しい肉を選り好みできるのは、大規模な村で食事をするときだけだ。少人数の村だと、どうしても美味しくない部位や、食べたくない部位まで食べることになる。生きるためには仕方ないと、頬の肉を無理矢理切り取って食べるときほど情けなくなる瞬間もない。顔という部位は人間の中でも非常に解体しづらく、しかも美味しくないのだ。
そういうわけで、わたしはいま空腹感を激しく募らせていた。前に食べてからそれほど日にちが空いているわけでもないが、慎重を期すために時間をかけすぎたという感じもある。早く食糧にありつきたいというのが本音だった。
わたしを家に泊めてくれたイミリという女性、村を案内してくれたアイラスという子供、(あいにく断ったものの)わたしに料理を振る舞ってくれようとしたオギー、そして鍛冶屋のボッコフ……。時間をかけてつけ入ったぶん、村での思い出も増えてしまう。
わたしとて、自分と仲良くしてくれた人を殺すのに何の抵抗も覚えないほど感覚が麻痺してはいない。しかしこれは、普通の人間が家畜を殺すのと同じ、生きるための淡々とした作業だ。
遠くの島国では、学校で家畜を育てて、ちょうど愛着が湧いてきたころに殺して食べるという教育をやっていると聞いたことがあるが、わたしがやっているのはまさにそういうことだ。人間であるのだから人間に情が湧く。だけど生きるためには心を鬼にしないといけない。わたしに課せられた枷は、そういう類いのものだった。
そんなことを考えながら、わたしは決行の時を待った。
このまま時間が止まってしまえばいいのかもしれないと、少しだけそんなことを思った。
5
わたしが最初に狙ったのは、もちろんわたしが寝泊まりしている家の住人だ。
隣で眠っているイミリの寝息がよく聞こえる。わたしは目を凝らして、彼女の心臓の位置を見定めた。
眠っている人間を殺すこと自体は、至極簡単なことだ。相手が油断している隙に、めった刺しにしてしまえばいい。仮に痛みで起きたとしても、彼らにもはや抵抗する力は残されていない。
しかし、人間を食べるという観点から言えば、それではいけない。めった刺しにすることで全身の肉が傷ついて、食用にできる部位が大きく減ってしまうのだ。だからわたしは、心臓を一突きにして殺すことを旨としていた。即死の方が痛みも少ないし、殺される側にとっても望ましい死に方だろう。
わたしはイミリの胸にダガーを突き立てた。刃と皮膚の隙間から、血がダラダラとにじみ出ている。しっかり心臓を刺せたようだ。ダガーを抜くと、血はあたり一面にまき散らされ、わたしも返り血を被ることになった。ちょっと汚いけど、あとで洗えばいい。どのみち全員死ぬのだから、このあたりのことで技巧を凝らす必要はないのだ。ミステリ小説とは違って、わたしの殺人はただ生きるためのものなのだから。
わたしはイミリが絶命したことを確認すると、次の家へと向かった。こちらも眠っており、殺すのは簡単だった。筋肉質で美味しそうな二十代の青年だった。経験から言えば、いわゆる前途ある若者ほど美味しい身体を持っていることが多い。それを感じるたび、わたしは希望を食べているんだな、などと思うのだった。
そうして四、五軒殺して回ったとき、ある誤算に気付いた。
鍛冶屋の明かりが点いている。
ボッコフはときおり、夜通しで作業をすることがあると聞いた。今夜は眠らないだろう。
これはまずい、とわたしは思った。「夜になったら眠る」という常識が通用しないこういう人間は、わたしのような人喰いにとって非常に厄介だ。とはいえ、こういった事態に遭遇したのは一度や二度ではない。わたしはすでに起きている人間の攻略法を熟知していた。
鍛冶屋の窓は開け放してあった。わたしは彼から見えないように、中を覗く。
ボッコフは金敷で作業をしている。その隣には一本のロウソクが立っていた。
なるほど、イージーモードだ。わたしは懐から、人喰い七道具のひとつ――もとい、竹筒を取り出した。そしてロウソクの方に狙いを定めて、一気に火を吹き消した。
「なんだ!」
ボッコフの驚く声を意に介さず、わたしは窓を飛び越えて中に入り、彼の服を掴んだ。彼の大きな目がわたしの姿を捉える。
「お前……盗賊か」
顔がバレてしまった。しかし、主導権はすでにこちらにある。
「うちの財産ならくれてやるよ。だから頼む、命は……」
「盗賊なんて高尚なもんじゃないよ。わたしはお金になんて興味ない」
わたしは彼の言葉をさえぎり、言う。
そして右手をダガーに持ち替えて、彼の首にそれを当て、頸動脈を一気に掻っ切った。
「わたしは単なる人殺しだよ……なんてね」
ひとしきり血の雨が降り注いだあと、わたしは彼の遺体を床に置いて、鍛冶屋を去った。
その後もわたしは順調に村人を殺害していった。ダガーで一刺しにしているだけだから実感が湧かないのだが、今夜だけでわたしは十何人もの命を奪ったことになる。それほどに人の命はあっけなく、また儚いということなのだろう。しかし、塵も積もれば山となるという言葉もある。小さな命をたくさん踏みにじったら、それは強い命なのか?
わたしはそうは思わない。わたしの命もまた、風前の灯火のように儚く、そして些細なものだ。些細な命が些細な命の上に立ち、そこに必然も絶対もない。戦争も虐殺も、だからこそ起きてきたのだと思う。わたしがやっているのは、普通の人間と地続きのこと。……少なくとも、そう考えないとやっていけない。
村人を全員殺し終えたわたしは、ようやく手に入った食糧を前に舌なめずりをしていた。腹を横に割いて、次にそれを跨ぐように縦にダガーを入れると内臓を取り出せる。内臓の中でも個人的に気に入っているのが肝臓だ。少々癖のある味ではあるが、何より栄養満点で、ジューシーな味わいがある。わたしは目の前の男の遺体から肝臓を取り出し、贅沢にかじりついた。やはり美味しい。なお喜ばしいことに、彼は若くして不摂生だったようで肝臓に脂肪がたまっている。人間の脂肪をこよなく愛するわたしにとってはこれ以上ないごちそうである。
しかし、わたしが他の臓器を取り出そうとしたとき、異変を感じた。
建物の外に誰かがいる。
今までも、旅に出ていた村人が帰ってきて慌てふためくということはあったが、夜中に戻ってくるというケースはなかった。いずれにしても、明らかに異常事態を認識している人間を相手取るのは根気がいる作業だ。単純に戦闘能力で相手を上回らなければならない。
彼がすでに村の惨状に気付いているかはともかく、彼を殺す必要がある。
いや――今回に限って言えば、わざわざ殺してやる必要もないのか。
足音が近づいてくる。迷いなくこの家に向かってきているようだ。
わたしは取り出した内臓を床に捨て、臨戦態勢を整えた。
小屋の扉が開かれる。月明かりの逆光で彼の顔はよく見えなかったが、しかしわたしは彼が誰かすでに知っていた。
「やあ――人喰いのお姉さん」
目が慣れる。その顔には、頬に大きな傷痕があった。
「あなたが逃げるとしたら、この村だと思ってたよ」
そこにいたのは他でもない、ドラ村のハリクだった。
彼が持つ大きな鉈が、月明かりに反射して輝いていた。
6
「やっぱり、入れ替わりを使ったんだね」
「なんだ、バレてたのか。けっこう頑張って工作したつもりだったんだけどな」
いまのハリクには村で見せていた幼げな雰囲気など欠片もなく、ただ飄々とした態度でそこに立っていた。
「簡単な話だよ。村人は十人。遺体も十人分。そうなったら、村が全滅したと考えるのが妥当だけど――もし村に、人扱いされていない人間がいたとしたら話は変わってくる」
「人扱いされていない、か……あれはそういうわけでもなかったんだけど、まあ続けなよ」
「そもそもおかしなことがあったんだよ。あそこで死んでいた十人、彼らはみんな仮面を被っていた。でも宴に参加していたはずのきみが仮面を被っていたというのはおかしい。きみはわたしに村を案内してくれたとき、村人を前にしても仮面を被ることはなかった。何らかの儀礼的な意味があったのかもしれないけど、それもおかしい。仮にきみがあの集団自殺で本当に死んでいたとして、わたしに自分の死を印象付けようとしたのだったら、当然仮面を外した状態で死ぬはずだから」
「それはどうかな……案外、おれの気まぐれかもしれないよ」
「はぐらかすだけなら話を続けるよ。……もしかするときみは、かりに仮面を外されてもきみが死んだと誤認させるような策を講じていたのかもしれない。たとえば、その顔の傷を『偽の遺体』につけて、目や鼻は人相が分からないように潰しておく、とか。これはこれで死に方が不自然になるけど、偽装としては悪くない。でもわたしはそもそも顔なんて見るはずがなかったんだよ」
「……どうしてだ?」
ハリクはここに至って初めて困惑の色を見せた。
「だってわたしにとって、人間の顔は基本的に食糧にはならないんだよ。不味くて食べづらい、肉も少ない。そんな部位を相手取るほどわたしも暇じゃないんだよね」
「なるほどね。……推理はそれで終わりか? 早く本筋に移りたいんだが」
「こんな夜更けに生き急いでも仕方ないよ。もう誰もいないんだし、わたしたちに残された時間はまだまだあるよ……。まあ、決定的だったのは、馬小屋がもぬけの殻になっていたことだよね」
「それがどうしておれが逃げ出したことに繋がるんだ?」
「あの小屋に、馬が二頭以上いることはあり得ないと分かるからだよ。仮に二頭以上いたとすれば、もしきみが逃げ出したとしても一頭は残っているはず。でも実際には馬は残っていなかった。誰かが解き放ったという線も考えられるけど、だとしても馬が一晩で村から遠く離れることはない……と思う。このあたりの確証はないんだけどね。
けれどここで矛盾が生じてくる。わたしは村を見て回っているときに、小屋から複数の鳴き声を聞いているんだよね。動物が二匹以上いないのに、鳴き声が重なって聞こえる…‥この理由は一つしか考えられない。馬と一緒に、小屋に人間を閉じ込めていた場合だよ。おおかた狂犬病にでも罹って隔離されていたんだろうね。
ああ、まああとは、自殺にしては不自然なナイフの刺さり方をしてる遺体があったんだよね。これはわたしの経験ゆえだけど……これも傍証にはなるかな」
「……推理ごっこは以上か?」
「まあね」
「おおむねもって正解だ。おれはあの小屋に隔離されていた発狂した男を殺して、おれの遺体としてすげ替えた。そして馬を使ってこの村まで逃げてきたというわけさ。でも謎はまだ残ってるだろ。おれがなぜ仮面を被っていなかったのか、なぜあんたが人喰いだと気付いたのか――そしておれがなぜ今、ここに現れたのか」
「さあね。わたしはロジカルに考えるのが苦手なんだよ。まあ、当てずっぽうでいいなら考えてたことはあるけどね……例えば、きみは本来生まれてはいけない子供だったとか」
「……へぇ?」
「犯罪者の集まる村。奇妙な呪術的信仰。これらをかけ合わせて考えれば、性交渉が禁じられていたと考えるのは自然なことだよ。でも、その禁忌を犯した『破戒者』がいたとしたら? きみははじめから罪を背負った子供として生まれたことになる。いわば罪悪のサラブレッド……そんなきみが、集団自殺の儀式で中心的な役割を担うのも何ら不思議ではない」
「なるほどね。それでおれは『死の瞬間を見届ける者』として彼ら九人の死を見守ったというわけだ。いや、十人と言うべきかな……まあいいや。ともかく、そこから先のことはどうとでもなるわけだ。いや、お見事だよ。当て推量でそこまで考えられるなら大したもんだ。だてに人を喰ってはいないといったところかな?」
「言っておくけど、二つ目と三つ目の理由については全く分からないよ。人目には気を付けていたつもりだったんだけどね」
「簡単だよ……あんたの姿を直接見ることこそなかったが、喰い荒らされた人間の遺体を見たら誰だって気付くだろう。何と言ったって、この砂漠に人を喰うような獣はいないんだ。うちの村で飼っていたのは馬……つまり草食動物だし、そうそう辺りの村の人間が近づくような場所でもない。だとしたら、あの村で唯一おれ以外に生き残ったあんたがその肉を喰ったんだと、容易に想像がつくんだよ」
「そりゃ迂闊だった。今度からは集めた肉はひとまとめにして置いておくことにするよ」
「今度があると思ってるのか?」
「……それはつまり、わたしと戦いたいって捉えていいのかな?」
わたしがそう言うと、ハリクは思わず漏れ出たというような笑いをこぼした。
「いや……冗談冗談。まさか人喰い相手にタイマンで勝とうだなんて思っちゃいないさ。いくら幼いおれだってそのくらいのことは分かってるつもりだ。いや、むしろ分かってるからこそ……ここに来たと言うべきかな? なに、簡単な要求だよ……無理は言わない」
「…‥何が言いたいのか分からない」
わたしは息を呑む。そしてハリクは、わたしにこう告げたのだった。
「おれを、食べてくれないか?」
……は?
率直に、そう思った。今まで十七年も人喰いとして生きてきて、どうか殺さないでくれと懇願されたことはあっても、俺を殺してくれだなんて要求をされたことは一度もなかった。
完全なる例外。あるいは計算外。わたしの直感が、これ以上踏み込んではいけないと告げていた。しかしそんなわたしの狼狽に構うことなく、ハリクは言葉を続けた。
「ずっと考えていたんだよ。罪を背負って生まれたおれは、どこで死ねばいいのか――どうせ死ぬなら、どう死ぬのが一番面白いか、そして美しいか……今までそれが分からなかった。だからこそ、死の危険が何度迫ってきてもおれは生き抜いてきたんだ。飢えれば獣を狩って食べた。水がなければ井戸を掘った。家が燃えれば真っ先に消火にあたった…‥どれも村のためじゃない。俺が生きるためだ。村が生きることで俺が生き続ける。その構造をおれは最初から理解していた。罪人の交配種であるおれが生きるということは、罪人の集まりである村が続くということだ。逆に言えば、村が滅べば俺も滅びる。そういうものだと思っていた。
だが実際にあんたが来て集団自殺が決行される段になって、おれは初めて死に対する嫌悪感を抱いた。いや、死への嫌悪じゃない。死に方への嫌悪だ。いくら村と一緒に心中するとは言っても、おれ自身の手でおれを終わらせるのは御免だった。これは理屈じゃ説明できない。とにかくおれは自殺なんて死に方でこの世を去るのはまったく面白くないと思った。だから逃げ出したんだ。この村に来て、流浪の旅人として振る舞ったんだ。
ある日おれは自分の村の様子を見に行った。村が滅んだことを自分の中で認めたくなかったのか、あるいは改めて確認したかったのかは分からない。でもともかく、そこであんたが人喰いだと気付いた。
人喰い。これは面白い存在だと思った。人間は動物を踏みにじらないと生きていけないが、人間を踏みにじらないと生きていけない人間も存在する。いや、そもそも人間社会というのがそういう風にできているのかもしれないけど。そういう人間に殺されてみるというのは――そんな人喰いの栄養分として一生を終えるのは――実に面白い、そう思ったんだ。だから――この鉈で俺の首を絶ち切って、そしておれを食べてくれ」
彼が一気にそう言い終えるとともに、家の中には静寂が響いた。
忌み子として生まれたハリク。彼が抱えてきた苦悩について、わたしは改めて考えた。彼の論理は筋が通っている。しかし、こんな結論を導き出す人間がいていいと、わたしは思わなかった。前提を間違えた推論は間違った結論に至る。彼の場合、その間違った前提というのが彼の出自そのもの――生まれてはいけないのに、生まれてしまったことだったのだろう。
まあ、いずれにしても――わたしはわたしが思うように行動するだけだ。そこに他者の意思は介在しない。人の話を聞く人喰いなんて、この世界では生きていけない。
だからわたしは、こう答えた。
「断る」
ハリクの顔が一気に曇る。
「……どうしてだ? この村は住人が多いとはいえ、あんたは常に食糧に困ってるんだろう? 俺が助けたときも飢えて死にそうだったじゃないか。だからその足しになれば、あんたが生きるための数日、いや数時間でもおれが生きるためのエネルギーになればそれでいいんだ。それなのにあんたは、あんたは……おれをまっとうには生きさせてくれないっていうのか?」
「まっとうに生きるっていうのは、誰かのために死ぬことじゃないよ」
わたしは独り言のように呟いた。
「生きるために殺すことはあっても、生きるために死ぬなんてのは自己矛盾だよ。わたしはあんまり難しいことは考えられないけど、今まで喰ってきた人たちも、わたしに食べられたからわたしのために生きたことになるわけじゃないよ。彼らには彼らなりの生きる理由があって……いわば、生きるために生きる、みたいな。そういう生き方をしてきたんだと思う。仮に前提を間違えた人生でも、生きるために生き続けてきたなら……それを漫然と続けてみることにも、まだ意味はあるんだと思うよ。少なくとも、わたしはそう思ってる。だからこれからも人を殺して食べる。善意につけ込んで村人を皆殺しにするよ。でもあなたは……生きることを間違いだと思って、あまつさえ食べてくれなんて言うあなたは……わたしに食べられるには値しないよ」
わたしの言葉を聞きながら、ハリクはその場にへたり込んだ。
まなじりに浮かんだ涙が、月の光をはね返していた。
7
わたしはその日も村を襲う準備をしていた。
あれ以来――あの夜に彼と別れてから、わたしがハリクの噂を聞くことはなかった。どこか遠くの村に旅に出たのかもしれないし、案外に道中で野垂れ死んだのかもしれない。
わたしが獲物を取り逃がしたのは初めてだった。ハリクはわたしが人喰いであることを喧伝して回っているのかもしれない。そうだとすれば、わたしのサバイバルはより厳しいものになるに違いなかった。
わたしはダガーを手に取る。
まあ案外、そういうのも面白いかもしれないと、そう思った。