捺火削がん

まず、ココロのスキマにスイッチを設置します

小説「抽象東京」

はじめに

※ この記事は、某校文藝部「Air Mail vol.31」に寄稿した作品を転載したものです。

 

これ随筆じゃないんですよ 私は 23 区に住んだことがないので

これも高一のときですが、文体はともかく読み返してみても割といい文章だな?

私はこのときよりもさらに新宿と渋谷のことが嫌いになりました ちなみに西武新宿駅の地下っていうのは新宿サブナードのことで、本当にあのあたりまで行って地下に逃げ込んだんですよね 建設中の歌舞伎町タワーを見て、よし行ってみようと思ったんですが、歌舞伎町のオーラに打ちひしがれて、あえなく撤退しました

 

 

本文

 まず、普遍的な「東京」を思い浮かべてみてほしい。

 さて、そこに、私はいるだろうか?

 

 東京。そう聞いた時、人々が真っ先に思い浮かべるのはきっと、華やかな都会の姿だ。

 テレビに映し出される渋谷スクランブル交差点。新宿の巨大デパート、摩天楼。丸の内の小綺麗なビル街。セレブの街、広尾、麻布十番。あるいは表参道とか、銀座とか、六本木とか、そういうところ。

 しかし、そんな印象は「東京」の表面の表面に過ぎない。二十三区を出れば、ある程度のところに行くと当然のように野菜の無人販売コインロッカーが置かれているし、空も広い。

 仮に二十三区内に限定したとしても、例えば大通りから逸れた道に少し入ってみれば、複雑に入り組んだ細い道路があって、それらが織りなす区画にはあまりにもありふれた日常生活がある。そこには不動産屋がある。個人経営の月極駐車場がある。二ケタ円で惣菜の揚げ物が買える肉屋か、弁当屋がある。駄菓子屋もきっと残っている。たこ焼きだって売っているはずだ。

 

 子連れの夫婦が歩いている。子供がキャッキャと笑いながら飛び跳ねると、その左右両側から両親が持ち上げる。子供はさらに喜び、足をバタバタとさせる。そんな様子を見ている者が二人いる。前者は若者で、自分がとうに失ってしまった純真さに思いを馳せて苦しんでいる。後者の中年は、幼子の笑い声に耳が痛くなってしまい、怒りをぶつけようとしてしまった自分自身を恥じている。無意識にも足が遅くなる彼らを、郵便配達のバイクが追い越していく。バイクはアパートへ向かい、郵便物を届ける。玄関の前には、アマゾンの箱が二つ置いてあり、居住者は面倒くさがりなのだろうと、彼は推測する。そんなアパートの大家は、意味もなく窓の外を見つめている。そこには塀があり、その上を猫が歩いている。鈴はつけていないから、野良猫だ。餌をやる住人がいるから、ここら一帯に棲みついている。所構わず糞をしていくから、一部の住民は困っている。住民にも過激派と穏健派がおり、前者はトゲトゲやスプレーを駆使して自らの敷地内から徹底して猫を追い出す。後者は、可哀想だからといってこれといった対策をしない。餌はやらないが、猫が可哀想だから。大家は後者の人間で、猫の存在を確かに視認しながらもソファーに寝転がっていた。そして、猫は天を仰ぐ。東京の空は、確かに狭苦しく、それでいておおらかで、青々としていた。

 

 と、こんな物語も、どこかしらには絶対に存在している。東京というのは、こういうところなのだ。住宅街には、当然ながら、スクランブル交差点ほど多くの人間はいない。

 

 ところで、「新宿」を想像してみてほしい。一般に言われる新宿というのは、ある程度決まったものだ。あの一帯を構成するものは、すごく単純なのだ。

 例えば、新宿駅南口を出たときのことを考えてみよう。あそこにあるものといえば、やたらと綺麗な商業施設や、「路上ライブ禁止」の看板のすぐ横で行われる路上ライブ、「喫煙はお控えください」との掲示を塞ぐように立つ喫煙者たち、不法占拠としか思えない佇まいの宝くじ屋、掲げられる政治的主張、ホストクラブや性風俗バイトの街宣車。そして、その空間を満たす空気は淀んでいる。煙草の臭いとゴミの臭い、ドブの臭い、排気ガスの臭いの混ざった、いわば臭さのカルテット的な臭いが充満しているのだ。これほど面白みに欠ける、しかも立っているだけで不快になる街もなかなかない。地形は面白いし、あそこの地下迷宮を探索するのはゲームのようで楽しいのだが、少なくとも、地上の雰囲気は地獄のそれ以外の何物でもない。歌舞伎町の近くなんぞに行こうものなら、それが発しているあまりにも強い負のオーラに打ちひしがれて西武新宿駅の地下へと潜り込むこととなる。あそこには、近づいてはいけない。ちなみに、大通り沿いの雑居ビル街に神社があるから、一度行ってみるといい。

 

 渋谷も、何とも言い難く単純な雰囲気をしたところだ。あそこに充満しているのは、鬱陶しいほどに暑苦しい若者の熱気と、滝のように次々と巨大スクリーンに映し出される情報と、それとやはり臭気カルテットだ。あそこに行けば何も聞こえない。騒音に全てかき消されるからだ。超高層商業ビルとか、何とかパークとか、そういう新しいものが沢山出来ていく駅近くの様子は、かなり離れたところからでも見ることができる。治安の悪い「ストリート」とか、そういう、「美しい都会」に見捨てられた地からでさえも――。

 

 だから、とにかく、せっかく東京に来たのだったら、ミカンのアルベドの部分だけをチマチマと味わっていないで、幹線道路から逸れて、そこら辺を歩き回ってみてほしい。歌舞伎町とかセンター街は駄目だし、丸の内ではまた別の意味で不毛だと思うが、しっかりと東京の「実」を味わってみてほしい。大型商業施設ばかりに現を抜かしていないで、住宅街にポツンと佇む肉屋でメンチカツを買ってほしい。この東京で「商店街」などと呼ぶにはあまりに小さな商店街を、見学してみてほしい。博物館で鳥の剥製を見るよりも、路地裏で鳥の死体を見てほしい。行き止まりの看板を撮影してみてほしい。水路沿いに歩いてみてほしい。地蔵か何かを発見してほしい。水道管工事に出くわして「歩行者一名!」と言われて、軽く頭を下げながら申し訳なさそうに小走りでそこを通り抜けてほしい。落とし物の手袋がガートレールに片方だけはめてあるのを見てほしい。建物同士の狭間の闇を垣間見て、恐怖に震えてほしい。そして一番最後に、日が傾いてきたのを感じて後ろを振り返ったとき、茜色の空が摩天楼を焼いていること、そしてそれらが空の何割かを埋め尽くしていることに、心の底から絶望してほしい。

 

 ここは二十三区の小さなアパート。窓からは見えないが、大通りの存在を感じることができる。近くにはテナントが空いたままのごく小さな雑居ビルがあり、一軒家がある。あとは、もともとクリーニング屋か何かであったところに、区議会議員の後援会事務所があったりする。クリーニング屋は数十メートル先に移転した。テナントが目まぐるしく変わることで知られる建物には、タピオカ屋亡き後に台湾唐揚げ屋ができた。弁当屋は、後継ぎがいなくて潰れてしまった。

 一方、大通りには、おしゃれな喫茶店ハンバーガー屋がある。四車線の広い道を、比較的高級な車が走っている。駅の方に行けばタワーマンションがあり、高層商業ビルが立ち並んでいる。駅前には有名チェーン店がたくさんある。朝には、バスに人が詰め込まれている。歩きスマホをしている人が、壁や電柱にぶつかっている。典型的な「東京」の姿だ。

 では、もう一度「東京」を思い浮かべてみてほしい。

 そこには、きっと私がいるはずだ。

 

 さて、窓には、外の街からの探訪者と思しき人の姿が見える。あれは、きっとあなたに違いない。

 見向きもされない畳敷きの一室から、この街に心からの愛を込めて。